手には花壇の世話をしたことを報告する当番表を持っている。帰る前に花壇のチェックをするのが、園芸委員会に属する明代の毎週土曜日の仕事なのだ。 この仕事のおかげで他の児童たちより土曜日の帰りが遅くなってしまうが、明代は草花の世話をするのが好きだったので全然苦ではなかった。それに親友の雅子は園芸委員会に入っているわけでもないのにいつも明代を手伝ってくれていた。 雅子とふたりでおしゃべりしながらこの仕事をするのは明代にとって本当に楽しいことだった。 今日は、あとに残ったたったひとつの仕事は当番表を職員室に届けることだけだ。雅子は下駄箱で自分を待ってくれている。 明代は廊下の窓の外に見える輝くばかりに青い空をながめながら足早に歩いた。 土曜日の放課後は心浮かれる時間帯だ。 明代が職員室の入り口のドアの前に立った時だった。 誰かが廊下を走ってくる音を聞き、明代はその音の方に顔を向けた。 見るとタロがかなりあわてた感じでこちらに向かって走ってくる。 明代はタロのいつもらしからぬ形相と勢いに度肝を抜かれ、その場で硬直した。 タロはドアのところまで走ってくると明代には目もくれず、勢いよくドアを開けて職員室に駆け込んだ。 「大瀧先生は!?」 児童が職員室に入るときに言わねばならない「失礼します」のあいさつも忘れ、いきなり自分の担任を探しているらしいタロのただならぬ様子に、明代はなぜかかすかな恐怖を覚えた。 すぐに明代も職員室に入った。 職員室の奥にすわっていた教頭がタロに答えた。 「大瀧先生はお昼に行ったよ。何をあわてているのかね。」 見れば職員室の中には教頭と、あと数名の教諭しか残っていない。 タロは息を切らせながらも、大声で言った。 「おぼろが誘拐されました!」 職員室中の人間がいっせいにタロの方に顔を向けた。 タロの様子は冗談を言っているというふうではない。 明代はタロのところに駆けより、厳しい顔つきで言った。 「きちんと説明して。」 教頭もタロの発言をまじめに受け止めてややショックを受けたようだった。 「誰が誘拐されたって?」 教頭の問いに答えたのは他の教諭だった。 「六年つばさ組の土山おぼろのことでしょう。」 おぼろは学校ではちょっとした名物男だった。そこにいた、教頭以外の誰もが、「おぼろ」と言えば大瀧先生のクラスのあの一風変わった子どもだとわかっていた。 教頭は自分のデスクから立ち上がり、職員室のほぼ中央の位置に立っているタロと明代のところにやって来た。そして走って来たのと興奮しているのとで支離滅裂ぎみなタロを、その辺にあった椅子にすわらせた。 「まず深呼吸しなさい。」 教頭のことばに、タロは目を白黒させながら言った。 「早く警察に言わないと!おぼろが殺されるかもしれない!」 教頭は真剣な顔で太い声を出した。 「きみのする事は、まず深呼吸だ。」 明代も思わず加勢した。 「息を深く吸って、はくのよ。」 タロは言われるままの動作を三回くりかえした。 少し落ち着いたように見えた。 「よし、最初から説明したまえ。まず君のクラスと名前は?」 タロはあと二回ほど呼吸して答えた。 「六年つばさ組石柳太郎です・・・。」 そして、タロによる説明が始まった。 明代も、下駄箱で自分を待っている雅子のことなどすっかり忘れ、教頭のとなりでタロのはなしを聞いた。 タロのはなしは、ここ数日の間におぼろといっしょに体験したことから始まった。 ジャマ吉が殺されていたこと、山道の事故現場に行ったこと、ハイヒールを見つけたこと、夜山道にハイヒールを取りにきた若い男のこと、その男が今日校門に立っていたこと・・・。 そして、ついさっきのおぼろとの会話のこと。 カッターナイフを取りに教室に戻ったはずのおぼろは、自分の席に座り込み、タロにこう言った。 「ジャマ吉を殺したヤツはたぶん殺人犯だ。今校門に立ってる。」 あっけにとられたタロは、おぼろに説明を求めた。 「もうちょっとわかるように説明してよ。」 おぼろは無表情のまま話し始めた。 「ジャマ吉の血のあとはあまりにわざとらしすぎた。普通、あんなにはっきり山道から防火水槽までみちしるべみたいに血が残るわけがない。」 タロも、言われてみればその通りだと思った。おぼろは続けた。 「つまり誰かがわざとあそこにみちしるべをつけて、あの筋書きをみんなに信じ込ませようとしたってことだ。」 「あの筋書きって?」 「『誰かが山道でジャマ吉をひき殺してしまって、防火水槽までジャマ吉の死体を運んで投げ込んだ』っていう筋書き。」 「なんでそんなことを信じ込ませようとするんだ?」 おぼろはハイヒールの入った紙袋をちらっと見て答えた。 「人に知られたくない真実を隠すためだ。何かを車ではねて、車にへこみができたとしよう。人にそのへこみのことを聞かれても、野良犬をはねたということならたいした事件でもないだろう?」 タロはうなずいて言った。 「わかってきたよ。本当は人をはねて車がへこんだんだな。ハイヒールをはいた人を・・・。でもなんでわざわざ血のあとをつけながら防火水槽まで運んだんだろう?」 「本当に車でジャマ吉をはねたんだったら、ジャマ吉の体に車の塗料とかが着いてるはずだし、事故現場の様子を調べれば、犬をはねたっていう事故がウソかどうかなんてすぐわかる。でもね、犬の死体を運んで水の中に放り込んじゃったとなれば、犬の体から塗料を検出するのも難しくなるし、事故現場の様子も変わってしまったわけだから、その事故がどんなものだったのかを判断するのも難しくなる。」 「そうか。」 「うん。たぶんそうだ。本当は人をはねて山道に大量に血のあとが残ったんだ。あとでそこを通りかかった誰かがその血のあとを見たら絶対に不審に思うだろうってことは明白だった。でも、血のあとをたどって防火水槽にたどり着いて、それが犬の血だったとわかれば警察に連絡されたりする心配もないだろう?だから防火水槽まではっきり血のみちしるべをつけておいたんだと思う。」 タロはそれを聞いて怒りを覚えた。 「罪もないジャマ吉を殺して利用するなんてひどい。」 おぼろもタロのことばにうなずき、さらに説明を続けた。 「事故現場に偶然ジャマ吉が通りかかってこの筋書きを思いついたのか、この筋書きを思いついてからジャマ吉をつかまえに行ったのかはわからないけど・・・犬を殺して、血のあとを地面につけながらその死体を運ぶなんていう気味の悪くて大変な仕事をわざわざするからには、よっぽど人には知られたくない『もの』をはねてしまったんだと推測したんだ。そしたらあの赤いクツがあそこに落ちてた・・・。」 今までの状況から、おぼろの推測は正しいようにタロには思えた。 「で、これからどうするの?」 おぼろはタロの目を見て答えた。 「あの赤いクツの持ち主の心配をする。」 タロの今までの経験から、おぼろがこういうあいまいな答え方をするときは何かとんでもないことを考えているときが多かった。 やや不安になったタロが何か言う前に、おぼろがすぐに続けて言った。 「あの赤いクツをはいてた人がまだ生きているのかどうかはわからない。でももし生きているのなら、すぐに見つけだして病院につれていかなくちゃならない。あの男がきっとどこかに隠してしまったに違いないからね。ちょうど校門にいるし、今からあの男と接触するつもりだ。」 タロはそれを聞いてあわてた。 「まず警察に行った方がいいよ!」 おぼろは首を横に振った。 「警察は証拠がないと動けない。警察が直接あの男に聞いたとしても、あの男は知らないと答えるだけだ。そんなことをしている時間はない。もしはねられた人が生きているなら一刻を争う。今僕があの男のところに行ってくる。」 タロは引かずに反論した。 「警察に教えないものは、おぼろにも教えないよ!」 おぼろは立ち上がりながら言った。 「言わせるつもりはないよ。その場所に連れてってもらうんだ。」 「どういうこと?」 おぼろは当たり前のように答えた。 「今からあいつに誘拐されるんだ。」 必死でとめるタロの努力もむなしく、おぼろは自分の考えを実行に移した。 ふたりは荷物を持ち、ふたたび教室をあとにしたのだった。 やがて校門の手前数十メートルのところに来ると、おぼろは立ち止まってタロに言った。 「ここで一部始終を見てて。」 おぼろの身が心配でたまらないタロは困った顔をして尋ねた。 「見ててって・・・?」 おぼろはハイヒールの入った紙袋をタロに差し出して答えた。 「あいつが僕をどこかにつれて行くのが見えたら、すぐに職員室に行って先生に全部話すんだ。警察にも連絡してもらって・・・小学生が誘拐されたのなら警察も動ける。このクツは手がかりだと言って警察にわたして。」 タロは反論した。 「警察が見つける前におぼろに何かあったらどうするんだよ・・・やっぱりやめた方がいいよ・・・。」 訴えは必死であったが、タロは無駄な抵抗であることを感じていた。 おぼろはいつも自分で考え、実行する。今までそれを邪魔することに成功した者はいない。 「警察に助けてもらおうなんて初めから考えてないよ。僕は必ず自分の力で逃げる。」 おぼろのことばは当たり前のような自信で満ちていた。 おぼろが何かに失敗するのをタロが見たことがないのも事実だった。 タロはしぶしぶおぼろから紙袋を受け取って言った。 「死んじゃダメだよ。」 おぼろは黙ってうなずくと、少し笑って見せた。 なんだか久しぶりにおぼろの笑顔を見た気がして、タロはなぜかぞっとした。理由はわからなかったが体中をトリハダが走った。 そして、校門に立つ若い男の方に向かって何のためらいもなく歩き出すおぼろの背中に、タロはもう一度心の中でつぶやいた。 「死んじゃダメだ。」 [つづく] |